タカオブログ

ポンポンポン、ポンポンポン

2024・2025年よかった本

2024年は、年初の読書があんましで、なんとなく記録しないまま、ずるずる1年が経ってしまった。1年間で何を読んだのか、よく分からないので、振り返りのブログも書けなかった。

 

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2025年になっても、ずるずる記録しないままだった。

4月からはカイシャに通うようになったこともあり、読書スタイルは変わっていった。1冊をじっくり読むことは少なくなった。目の前にある本を、ページを、フレーズを、情報を、今の自分に役に立つか否かという基準で見て、けっこうシビアに判断しながら読み進めたり、とちゅうで辞めたりするようになった。

好きな作家の本を購入するときも、“今これを読みたい”という気持ちよりも、“これを読める状態に自分をもっていきたい”、あまつさえ、“もっていけますように”という、半ば祈りのような購入の仕方をするようにもなった。

 

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壁のような本棚を置いたことによって、本の背表紙が壁紙(インテリア)になってしまったことも、積読を厭わなくなった理由のひとつだとおもう。うすうす感じていたことを文章にすると、かなしい。でも、昼はカイシャにいっているんだし、しょうがないとか、心の底ではおもってしまっていることの方が、実はかなしいことだと知っている。

 

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カイシャの同期に、あんたがいちばん反骨精神あったのに、丸くなったんでびっくりしたと、会議室を出ながら言われて、そうだねとおもった。

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いまはとにかく、シャインとして問題なく振る舞うことを、がんばっている。

そのためには、先輩の動きをコピーして、じぶんとの差分を埋めること。ショクバに流れるリズムを察知し、違和感なく踊ること。時々、周りから見た自分が、楽しそうにステップを踏めているかどうかを確認し、うまいこと踊れていることを確認できたなら、それが翌朝9時から再びダンスを始める理由になったりもする。

 

「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」
オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。

『ダンス・ダンス・ダンス』村上春樹

 

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2013年から2021年までのわたしはそんなに本を読んで生きてこなかったわけだし、この2年間も、人生のなかのひとつの様相というだけなので、淡々とブログの更新だけはしていった方が、長い目で見たらいいんだろうなとおもったのが、いまPCをパチパチしている理由である。とはいえ、書きはじめたら楽しくなってしまって、前置きにしては、随分はしゃぎすぎである。

それでは、2024・2025編、いってみよ〜

 

 

 

2024年

かしこ

『バトラー入門』藤高和輝

「ジェンダー・トラブル」を中心にバトラーの理論を「クィアな」方法で紹介・解説するバトラーのファンジン。括弧がきで(ここ難しいよね)(私も完全に理解しているわけじゃないから安心してね)(むかつくよね)みたいなセリフが沢山あって愉快。脱線をくり返しながら、あらゆる場に潜む無数の権力関係をほどいてゆく。同じく藤高さん著『〈トラブル〉としてのフェミニズム』はもちろん良かったし、現代フェミニズム研究会での講演(ありがとうスピーチ)は、2025年の心震える瞬間の1つだった。*文字起こしドキュメントを持ってる方いたらください。

よみもの・エッセイ

『パンダのanan』小泉今日子

ananでの3年間の連載をまとめた自伝的エッセイ集。人間としてのキョンキョンが大好きになる。キョンキョンの普段の目線や生活の様子はとても素敵で、なんなら私と気が合いそうで、読んでるうちに仲良しになったような気分になる。あとは時々、文章が上手すぎてびっくりする。

小説

『灯台へ』ヴァージニア・ウルフ

誰しも、まるで異なる時間と意識の流れの中にいること。それでも成り立っている現実の脆さと、自然・文明・暮らしの美しさがここに両立している。よく読むと「分からない」けど、たまーに、もの凄く「わかる」のがおもしろい。

詩集

『惑星』片山令子

数多くの絵本や翻訳を手がけた詩人の散文集。切なく、爽やかで、あたたかい。上質のセーターのようなことばたち。

漫画

『スキップとローファー』高松美咲

高校生っていいなあ。前髪を切りたくなります(切りました)。

絵本

『ゆめ にこにこ』柳原良平

リズムのよいことばと、やさしい絵が大好きすぎて、3月の卒業式では、この本を学位記の代わりに掲げて記念写真を撮りました。

 

2025

かしこ

『現代思想 特集*「表現の自由」を考える』2025年5月号

雑誌や編著を好んで読み、論考のハーモニーをこよなく楽しんできた私ですが、こんなにも噛み合わないことがあるんだとおどろき、問題の多義性(どうしようもなさ)を感じた。不協和音の中で、自分の力で考えなくてはならないのだと、逆に勉強になったので、あえての選出とした。

よみもの・エッセイ

『AはアセクシュアルのA』川野芽生

社会制度は、制度の存続のために、都合の良い生き方を人々に義務として課しながら、それを個人が自分の意思で選び取ったかのように思い込ませる。「幸福な生き方」についての、広く流布された考え方とは、義務をくるむ糖衣に過ぎない。欲しいもののために、何かを抱き合わせで受け入れるようなことをせず、生きていきたい。

小説

いくつか読みましたが、ノミネートなし、ごめんなさい。

代わりに、『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』を紹介したいです。こどもの”きみ”とおっさんの”ぼく”との対話を通して、20篇の名詩をなんとも美しく紹介してくれる詩華集。絵は高野文子さん(うれしい)。読み終えるのが惜しくなる読書体験は久々でした。ランドセルを背負っていた頃の景色がふわっと蘇ってきたかと思えば、世界中に生きるこどもが愛おしすぎて涙が出てくる、そんな1冊です。

詩集

『地球の恋人たちの朝食』雪舟えま

凄すぎて目眩がする、ほんとうに奇跡のような散文集。地球からおもしろいものが1つ残らずなくなっても、この本さえあれば、ハッピーでいられると思う。

漫画

『A子さんの恋人』近藤聡乃

一見すると「2人の男性の間で揺れ動くA子さん」の物語だが、決して「恋愛模様」を描いた作品ではない。恋愛なんてウソで、ホントウはそこに別の人生を過ごしている人と人がいるだけだということを、愛をもって純粋に描ききっているように思う。

愛情とは、相手に捧げたり、相手からもらったりするものではなくて、その人の内側にすでにある何かを、ただ照らしてあげるようなものなのかもしれないなって

『きみを愛ちゃん』最果タヒ

A子さんは、何も考えていないように見えて、他人を想うこと、一緒にいること/離れることについて、ちゃーんと向き合っている。どちらかを「選ぶ」なんて考え方はしないA子さんの、人としてごく自然な振る舞いが、輝いている。人と人が暮らすのはとても不自然なことだけれど、不自然であるはずのそれを、自然にしていける力があなたにはある、と思えるとき、人は誰かとともに生きていくことができるのだろう(と最果タヒも言っていた)。

登場人物がみんなちょっとずつ可笑しくて愛らしい。

 

絵本

『マルセランとルネ』ジャン・ジャックサンペ

繊細な絵のタッチと、谷川俊太郎の軽快な訳に、毎ページドキドキさせられる。朗らかな友情がきらきらしていて、とてもうれしくなる。

 

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自分が書きたい文章を書いたのは久々な気がする。とても時間がかかってしまった。でも、やっぱりとても、たのしいねえ。

また来年ね〜〜!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハイホーへのいざない

メルマガ始めてみよかな!となっています。

これは、その理由を、説明しようとおもって書いている文章。

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バイト先の姉御・りんかちゃんは、いつも皆に「なんかたのしいことありました〜?」と聞いてくる。大抵はパッと思いつかなくて、「や〜最近は寝てばっかだね」とか返すことになる。その場は笑って流れるけど、ちょっとかなしくなる。だから「たのしいことあったかな」と考えてからシフトに入るようになった。

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みんなのたのしいことを知りたい。

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インスタのストーリーではお笑い(だとじぶんが思うこと)しか投稿できなくなっちゃった。

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わたしのストーリーはよく「あなたらしい」「世界がある」みたいに褒められる。けれど、(自分なりの)お笑いというレイヤーをひとつ挟まないと発信ができないだけ。ほんとうはもっと素直に、きいてる音楽とか、きれいなご飯とか、爆盛れ自撮りとか投稿してみたい。

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おおきくなったら、散歩のインスタライブとかしたい。

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ふるい友達と一対一で会うと、「あいつどうしてる?」「あいつ元気にしてた?」と聞かれる。わたしは、その人らしい近況エピソードを話して、喜んでもらう。郷愁の装置。

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もちろんたのしいけれど、ほんのすこしかなしさもある。まだ学生をやってるわたしは、みんなの近況を把握しがちだし、のんびり生活しているから、みんなにとっての「なつかしいあの頃」の空気感をまだ漂わせている。だから同窓会ぽい空気になるのは当然で、その役割は結局いつも買って出るのだけど、じゃあわたしが社会人になったらどうなっちゃうんだろう。フワフワ不安。

このままだと、年に数回会って、仲間のステップを確認し合うような、まあそれは喜ばしいことだったりもするんだけど、そればっかりの大人になっちゃいそうで、それはなんかうーんなのだ。わたしたちはもっとたのしかった。

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あなたの最近のハッピー/アンラッキーを聞きたい。

あなたのなんでもない日常について丁寧な口調で話してほしい。わたしはそれを次の日の夕方に思い出して、安心することができる。

 

あなたのかわいいところをもっと見つけさせてほしい。

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「りんかちゃんは?たのしいことあった?」と聞き返してみる。最近知った雑学を話してくれることもあるれば、つまんないことばかりで「なんかたのしいことないかな〜」と嘆くこともある。どっちにしても、わたしはとてもうれしい。

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そんなこんなで(?)

メルマガ、ちょうどいいじゃんねと思って、配信し始めました。月イチくらいで更新してます。

登録したい方はわたしに会ったときに声をかけてね。

合言葉は「ハイホー!」で、できるだけわたしの不意をつくのがコツです。

 

後期フリ☆フリ返り

きょうは3月31日。年度がおわるまえに記事を公開し、のちのち随時更新することで、ちゃんと年度末に書いたことにしちゃおうというモクロミ。

 

授業

☆社会学系の授業

授業じたいはあまり面白くなかったけれど、レポートはたのしく書けた。4つの授業で、ほとんどおなじ内容をすこしづつニュアンスをずらして書いた。ユートピア思想についての授業、水俣病についての授業、メディア論の授業、英文学批評の授業。この全部で石牟礼道子と李琴峰についてサバルタンとかインターセクショナリティとかの視点からあーだこーだ言ってみたら、けっこうおもしろく書けた。たのしかった。

 

☆文学

小説家の先生の雑談を聞くだけの授業。出席もレポートもなく、A4一枚の短編を書くだけ。そしたらなんと100点がきた。どうなってるんだ採点システム。

 

 

 

・友達ができた(3人くらい)

・妹と仲良くなった

 

<<<随時更新中>>>

2023年よかった本

2023年は本をけっこう読めた。

数えてみると100ちょいだった。ペース的には学校がはじまってからのほうが読んでいて、よっぽどヒマしてたんだな〜という感じだ。

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春くらいから、お友達🕺の家(本が1500冊くらいある)にあそびにいくようになったのが大きい。踊りながら仕事をする友達🕺とおしゃべりしながら本を読んで、すこしダラダラして、いくつかの本を借りて帰る、という日がちらほらあった。

借りる本を厳選するのは超たのしい。こどものころ図書館で貸しだし冊数の上限に頭をなやませていた時のような、さいこうにワクワクする時間。

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ひまなので、本棚をひっくりかえして今年の10冊を選んでみた。

 

 

 

よみもの系

『それで君の声はどこにあるんだ? 黒人神学から学んだこと』榎本空

すきな本屋さんがオススメしていたので友達🕺に借りてよんだ。文章も装丁も、まとうオーラがすごくて、興奮ではやる手を抑えながらゆっくり読んだ。これまで抱いたことのない読後感。今年ナンバーワンかもしれない。

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黒人神学のジェイムズ・H・コーンに師事するため、NYのユニオン神学校に渡った作者のいわば留学記なのだけど、ただの留学記ではない。重い歴史と切実な現実の渦のなかに身をおいて、真剣に語り学び悩み、それでもなんとか生活をする。こういうのをほんとうの青春というのかもしれない。コーンが目のまえで机をコンコン叩いているような気がしてきて、(わたしはベッドで寝っころがっているだけなのだけど)とてもうれしかった。

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西加奈子の『サラバ!』を読んだ直後だったので、ニーナ・シモンを聴きながらよんだ。ニーナ・シモンはじぶんのファイトソングになった。

 

 

『ペーパームービー』内田也哉子

家族とか夫婦ってなんだろう、の関心のさきにいて、ずっと気になっていた内田也哉子さん。わたし、19才、文章をかいてって言われたって困っちゃうよォみたいなノリではじまるのに、とても19才とは思えない人生観、達観、圧巻。

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👆母(樹木希林)✌️父(内田裕也)、👌夫(本木雅弘)とのエピソードひとつひとつがぶっ飛んでいて、ドラマチックで、めちゃくちゃおしゃれで、なのに等身大で、おおきな愛にみちている。かと思えば、いきなりお風呂に話しかけたり、ワンダフル・カレー・パーリーナイトを開催したり、ちいさなユーモアにあふれている。

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也哉子さんがはじめて訳した絵本『たいせつなこと』もだいすき。ちなみに最近おばあちゃん家から絵本を大量にもって帰ってきて、寝るまえとかにじぶんに読み聞かせをしている。

 

〈ほかのノミネート〉

植本一子『個人的な三ヶ月 にぎやかな季節』はお子ちゃんと一子さんの関係がすごくよかった。金原ひとみ『パリの砂漠、東京の蜃気楼』はことばが鋭利すぎて脳汁どばった。西加奈子『くもをさがす』は大変ありがたく読んだ。ありがとう。李琴美『透明な膜を隔てながら』は(これはマジで良すぎるほんとうは余裕でランクインなのだけど李さんは小説のほうにいれたので遠慮、でもほんとにつよい)。松岡正剛『ルナティックス 月を遊学する』は登下校のおともだった。荒井裕樹『まとまらない言葉を生きる』は線をたくさん引いた。大切なことがたくさん書いてあった。

 

 

小説

『ポラリスが降り注ぐ夜』李琴峰

すごい〜!よすぎる〜!つよすぎる〜!
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とある夜、新宿二丁目のバー「ポラリス」で交錯する女性たちをかいた7つのたんぺんで構成されている。ひとりひとりが複数形で生きているということが、ただそれとして伝わってくる。ある章の主人公が別の章にひょっこり登場するしかけも面白くて、じぶんで似顔絵つき相関図をつくって考察ごっこしてあそんだ。

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李さんには、「他者」を描くことについての圧倒的な信頼がある。あと、自分の作品を紹介するときに必ずしっかり自画自賛するところもすき。これからも追っかけたい。

 

 

『青と緑』ヴァージニア・ウルフちょ、西崎憲へん/やく

ヴァージニア・ウルフのたんぺん集。ちょっとしたウルフブームのときに『波』に挑戦してみたけれど数十ページで挫折。それでも気になっていたのでたんぺんなら、と読んでみたらすごくおもしろかった。

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いわゆるウルフ的な「意識の流れ」というかんじではない(らしい)けれど、このうえなく幻想的な世界を歩いているきぶんになってたのしい。Dr.ハインリッヒさんのネタをみているときと似たような感覚。具体的なできごとはほとんどなにも起こらない。湖面がゆれたり、燭台に水がしたたったりするだけ。なのにぐんぐん妄想がはかどる。

とくにすきだったのは『ラピンとラピノヴァ』『青と緑』『外から見たある女子寮』『サーチライト』

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ウルフをよむときはだいぶ意識を宇宙にとばさないと楽しめない。授業をうけるとか、労働をするとか、そういう地球にひきずりこまれそうなときに読んで、平静(あるいは酔狂?)を保っていきたい。

 

〈ほかのノミネート〉

朝井リョウ『正欲』はまえがきと怒涛のラストがよかった。映画もふくめていろんなひとと話せてよかった。安部公房『第四間氷期』は慣れるのに時間かかったけど超おもしろかった。ヘッセ『車輪の下で』はじぶんも一緒にうつぽくなっちゃった!でもおもしろかった。市川沙央『ハンチバック』はすごい。賞とれてほんとよかった。文學界新人賞のときの村田沙耶香と金原ひとみの評がちょうかっこよかった。町屋良平『スポーツ 基礎と応用』はめちゃおもしろい。予想をはるかにこえてきた。今村夏子『こちらあみ子』ははじめ衝撃でダウンしてしまった。そのあとこれをちゃんと読むための活動をして、それにすごく意味があった。山田詠美『ぼくは勉強ができない』は10年ぶりくらいに読んでおもしろすぎてビックリした。秀美くんさいこう。

 

 

かしこ系

〜〜〜編著(へんちょ)編〜〜〜

『記号化される先住民/女性/子ども』石原真衣へん

え!みなさん!集まってくれて!ほんとありがとう!わしが集めたわけじゃないけど!かっこよすぎる!ありがとう!というかんじ。

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北海道大学 アイヌ・先住民研究センターで2021年にかいさいされたシンポジウムを書籍化したもの。ぼんやりと石原真衣さん、内藤千珠子さんあたりが気になりはじめたころに新宿御苑まえの本屋で偶然みつけて手にとったら大あたりだった。すごい。互いの論をひきながら「記号化」というひとつの軸でつらぬいて華麗に共鳴・共振しているかんじ。最初はピンとこなかった専門領域のことなる6人の並びが、読後はスーパーチームのようにみえてくる。みなさんが巡りあい、互いの(時にひどい仕打ちをも受けてきた)仕事を評価しあっているさまは、アカデミズムの闇にさす尊い光のようにおもえた。という意味で、それぞれの論考のおもしろさはもちろんのこと、へんちょとしての学びがあった。とてもうれしい。

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内容もとてもおもしろかった。アイヌの当事者/他者表象における記号化と抑圧のプロセスが、考古学、文化人類学、フェミニズム、文学批評、現象学などの視点からしなやかに解剖される。特に内藤さんの章にぐっときた。じぶんと地続きな現在が内包する暴力構造をはっきり言語化したうえで、マイノリティとマジョリティの二元論の境界をゆさぶる可能性をフィクションに見いだす。ちょうど11月くらいにかんがえていたことをバチンと言い当ててくれた。きもちいい。さらに個人的に、ここしばらく社会学とインターセクショナリティの取り合わせがよくないかもなあと感じていたのだけど、「記号化の両義性」というところを考えていけばいいかも、というヒントをもらいました。ありがとう。

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どこまでも思慮深く、けっして安全な場所から見下ろしたりはしない。6人の言葉は、安っぽい「多文化共生」や「ダイバーシティ」とは対極にあって、希望に満ちた美しいものだった。これはとても有り難いこと、ほんとうにありがとうございます。

 

『現代思想 特集*インターセクショナリティ』2022年5月号

お世話になりました!これからもよろしく!というかんじ

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「インターセクショナリティ」という概念が練りあげられてきた歴史と、現在進行形で展開する広範な研究・実践を追ったもの。言葉は3年前くらいに知って、この号もかるく読んだことはあったけれど、ことしの4月にじぶんの研究は「インターセクショナル・デザイン」だよと先生に言われて、ああそうなんだァとおもってふたたび読みはじめた。今年はほんとうにここをベースに、いろんな本を行ったり来たりして過ぎた一年だったようにおもう。

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冒頭の討議はなんども読みかえしたうちのひとつ。石原さんの「ベル・フックスをちゃんと白人の立場で読みましたか?」という問いかけは、ゆっくり噛みくだきながらようやく理解しはじめたような気がする。じっさい、ここの日本人の「白人性」についての話題のなかで、ここって「黒人」の言い間違いじゃない?と思う部分があったのだけれど(友人宅でのフックス読書会でも「あれミスだと思って青土社に電話したわと言っている方がいた)いろいろ他の本を読むうちに、あ!これはミスなんかじゃないわ!とストンと腑におちる瞬間があったりもして、ゆっくり分かってきたかんじがして、とてもおもしろかった。

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やっぱりインターセクショナリティは、細い枝がどんどん伸びてひろがってゆくし、伸びた枝と枝は交差したり、根本でつながっていたりするからおもしろい。得てしてそういうものかもしれないけれど、へんちょであることの意味がある。これからもよろしく。

 

 

〈ほかのノミネート〉

川上未映子へん『早稲田文学増刊 女性号』は手に入れたとき震えた。これぞエレクトリカルパレードってかんじ。とくに多和田葉子『空っぽの瓶』に出会えてほんとによかった。雪舟さんは今日もさいこうだいすき。菊池夏野/堀江有里/飯野由里子へん『クィア・スタディーズをひらく3 健康/病, 障害, 身体』はたくさん線をひいた。どんどんひらこう!『現代思想22-06 特集*肉食主義を考える』はヴィーガニズム/カーニズムあたりのはなしにお熱になってた時期もあったなぁで懐かしい。土屋葉へん『障害があり女性であること:生活史からみる生きづらさ』は読みごたえがあったし、すごいプロジェクトだった。石井更幸へん『アルビノの話をしよう』は知れてよかったし、こういうのもっと読みたい。青本柚紀/高島鈴/水上文へん『われらははすでに共にある:反トランス差別ブックレット』は内容はもちろん表紙のイラストがすき。あと作家の生活とホンネみたいな文章だいすき。てぱとら委員会『私たちの中学お受験フェミニズム』はへ〜そうなんだ!あ〜そうだったかも!な感じでおもしろかった。

 

〜〜〜単著(たんちょ)編〜〜〜

 

『ACE:アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』アンジェラ・チェンちょ、羽生有希やく

東工大にきて間もないころ、とりあえずジェンダーと名のつく授業を学部にひとつだけ(ひとつだけ!?)みつけたので潜った。それが羽生先生の授業だった。

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あなたがエースだと自認しないにしても、それはあなたのためにあるんだ。(p.227)

アセクシュアルのレンズから社会を再考することで、いろんな紐をほどいている。おもしろい。

セックスを欲することが健康や人間性の要件であるべきではないのだ。(p.202)

言い切ってくれてありがとう。

脚注がとても充実していて、そこに訳者の想いが垣間みえてすごくよい。とくに「they/them」についての注がお気にいり。あとがきで「Welcome to the ace worlds」の訳出についてちゃんと説明してくれてたのもよかった。かこええ。仕事人だ。

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一橋の先生たちだったらがっぷりよっつ組み合って論破していたであろう生徒にたいしても、羽生先生は穏やかな口調で「論点はこうですか?」「なぜそう思うのですか?」と問いかけていたのが印象的だった。いっぽうで街頭や配信では(ボソボソと)アツい訴えをしていてかっこいい。

 

〈ほかのノミネート〉

D・カメロン/D・クーリックちょ、中村桃子/熊谷滋子/佐藤響子/クレア・マリィやく『ことばとセクシュアリティ』はどの章もめちゃおもしろい。中村桃子『「自分らしさ」と日本語』は研究でたいへんお世話になった。メールの返信はこなくてかなしい。周司あきら/高井ゆと里『トランスジェンダー入門』はもちろんよかった。毎日新聞取材班『ヤングケアラー:介護する子どもたち』は授業の課題でよんだ。こりゃーすごい。こんな仕事できたらいいなぁと思った。好井裕明『「感動ポルノ」と向き合う 障害者像にひそむ差別と排除』はかんたんな言葉でていねいに書かれていてわかりやすかった。

 

 

ポエ系

『茨木のり子集 言の葉3』茨木のり子

むかし地域の図書館の「日本の詩歌」コーナーで適当に手にとった詩集のなかの気にいった詩をひとつだけコピーして持ち帰るという、10円の暇つぶしをしていた。それがあるとき、机のひきだしからベロンと出てきたのが茨木のり子の「一人は賑やか」のコピーで、なんだこれ良すぎる〜〜!と思ってそのまま本屋に走った。

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『食卓に珈琲の匂い流れ』『倚りかからず』にすきな詩がいくつかあったし、エッセイもよめてうれしかった。なんというか、骨太でかっこよい。凛。

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茨木さんが暮らした家や若き日のポートレートをおさめた写真集『茨木のり子の家』、調理器具や食器の写真と直筆のレシピをおさめた『茨木のり子献立帖』もあつめてしまった。超いい。

 

『風の歌を聴け』村上春樹

村上春樹をすきな友達が「これが一番おもしろい(これ以降の作品はおなじことを延々といっているだけ)」というふれ込みでプレゼントしてくれた。

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読んでみたら超おもしろくて、しばらくポッケに入れて5周くらいしてしまった。どんな作品とか、どんな感想とかは、さんざん言われてそうなのでいいとして、わたしはこれはポエだな〜!ポエじゃん?と思って、そういう楽しみかたをしたので、ここで選んでみた。

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村上春樹は、高校のころ『ダンス・ダンス・ダンス』をよんで訳わかんなくてそれきりだったので、おもしろいジャン!と思えてよかった。思い立ったらダンス×3もまたよみたい。

 

〈ほかのノミネート〉

加藤千恵『ハッピー☆アイスクリーム』はめっちゃカトチエ!ってかんじでたのしかった。青松輝『4』はふつうによくて、なんかよかった。平出奔『了解』は友達🕺に借りてけっこうおもしろかった。オノヨーコ『グレープフルーツジュース』はずーっと天啓をうけてるかんじ。天啓めっこをするにはぴったり。

 

 

漫画

『いやはや熱海くん(1)』田沼朝

こりゃいいね!さいこう!

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顔がきれいでポーっとしてる男の子のはなし。絵もきれいだし、笑いのツボとリズムがどストライク。熱海・足立・国島たちの会話にはいりたい。というかわたしのなかに既に3人がいるので日々がたのしくなっている。

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漫画はあまり読まないのでほかのピックアップはなし〜!

 

 

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いままでは読みたい/読むべき本をみつけるのが下手だったけど、ことしはわりと上手くいった気がする。偶然の出会いなんてものはなくて、ふだんから手繰りよせることがだいじ。

 

それにしても文章を書くのはほんとにめんどくさい。去年も言った気がするけど、来年こそは誰かとおしゃべりで済ませたいな〜

 

 

『バービー』を観て(後編)【パターンB】

そうしたら、バービーはどうやってひとりで人間社会に生きていくのだろう。とても気になる。老いとか死とかのテーマもちらほら出ていたのに、全然描いてくれなかった。しかしラストシーンにヒントを窺うならば、まずその一歩目は「産婦人科に行く」ことなのかもしれない。セルフメンテナンスのため?排泄、あるいは生殖機能を求めて?

病院を出たら次はハローワークに行くのだろうか。ショッピングに行くのだろうか。何にせよティピカルなバービーの門出は、主体性をとりもどすことからはじまる。

 

「こんにちは!こんにちは新しい時代!そしてセンチュリー!こんにちは!」

Dr.ハインリッヒの新ネタ「占い師」

 

Dr.ハインリッヒの幸さんは、のそのそとコントに入る。占い師の彩さんに「日々の悩ましきこと」として、スリッパに吸い込まれてしまいそうで怖いだとか、ギターでひょうたんを代替できるか不安だとか、そういうことを相談する。占い師の彩さんは、悩み相談というものは、仕事や健康といった暮らしのささやかなものだぞ、とツッコむ。

 

彼女らの世界に恋愛相談なぞは相談しない。

 

だからというわけではないが、わたしがハインリッヒの漫才やトークを安心して摂取できる理由はそういう部分にあるのだと思う。二人が後輩らの恋愛事情についてタロットで占っているときも、あくまで第一義はひととしてのあり方や人間関係の悩みだ、という意識が、当たり前にそこにある。すんなり入ってくる。でもたまに、これは当たり前のことではないと気づく。さりげない一言やボケに「あ、これは二人だからこそ出てくる言葉だ」と思った瞬間、彼女らの内側で煮えたぎる矜持が見える。

 

・・

 

自分はいつからボーイミーツガールを「ボーイミーツガールだな」と思うようになったのだろう。高校生の頃は『君の名は』を面白いと感じなかった自分を隠しながら周りに合わせて2回も観に行った。大学生で『天気の子』を観て、内容が全く入ってこなかった原因が「こいつなんでヒロインを好きなんだ?」じゃんと気づいた時にはもう、愛とか恋とかを学問対象として考える手段があった。ありがたいことだった。

 

今年の初め、『にわのすなば』を観てようやく、シスヘテロノーマティビティとセクシズムからの逸脱が、わたしの感動には必要なのだとわかった。振り返ってみると、わたしが好きな物語は大抵、その逸脱すら感じさせないようなものばかりで、繰り返される日常には些細な愛とユーモアが溢れている。でも現実逃避しているわけじゃない。登場人物たちは「日々の悩ましきこと」を抱えて、成長したり、愛に救われたりする。そういう幸せはちゃんとわたしの日常にも流れ込んできて、明日の希望になったりする。ひとに優しくしようと思ったりする。『にわのすなば』は(愛も成長も描かれない物語だけれどその分いくらでも妄想できてそれがとても楽しくて)4回も観た。

 

・・

 

(異)性愛それ自体が嫌いなわけではないと思う。でもどうしてもシンプルなロマンティック&ハピネスそれだけでは自分の世界の幸せとは繋がってこない。好きとか愛し合うとかで万事解決はできない。あたりまえ。キムタクくらいカッコよければ諸手を挙げてキャーキャーしちゃう、みたいなことを言っていた時期もあったけれど、よく考えてみれば心から大好きなのはロンバケくらいで、瀬名と南のひととなりや二人自身の人生への葛藤、何なら演じている山口智子の精神性まで含めて好きだからであって、やっぱりラブジェネに途中で飽きていたのはそういうことかも。

 

『こっち向いてよ向井くん』はとてもよかった。マミンと元気くん、向井くんと坂井戸さん、それぞれの関係性を全私が祝福していた。他人の恋愛関係に口を挟む権利はないけれど、それぞれの人生の主人公たちが、主人公たちとして(ざっくりと幸せに)過ごしていてほしい。彼/彼女らのために悩んでいてほしい。万事解決なんてしなくてよかった。

 

・・

 

先週「感動ポルノ」についての本を読んだ。友人が24時間テレビの制作に関わっていると聞いたくらいから、なんとなく気になっていた。そのコンテンツを批判しようとかではなく、そもそも何がどう批判されているのか、「感動ポルノ」は何を指すのか、子供の頃の自分はそれをどんなふうに見ていたのか、ちゃんと考えてみたいと思っていたからだ。そんなことをぼんやり思っていたら、たまたま遠征中に大阪で読んだ『こちらあみ子』で心と頭がパンクしてしまった。ので、友人の家で借りて読んだ。

 

再確認できたのは、けっきょく人間を主体的な存在としてまなざすことが大事じゃんね、ということだった。文字にしてみたら当たり前だけど。でも、それを徹底して生きることは本当にむずかしいくないですか・・・?

 

昨日『ポラリスが降り注ぐ夜』を引っ張り出して、読んで、興奮して、その勢いで聖地巡礼したりユーチューブで星屑スキャットを聴き漁ったりした。でも一晩明けて今日は、やっぱりそんなことをしてもその気になっているだけじゃないかとか、けっきょく文学にしかできないことなのだろうか、とか、ぐるぐる思ってしまう。

 

・・

 

けど

あみ子に向き合うためには、もっと勉強したり、考えたりしなくちゃならない。「ポラリス」に感動したのは、ある程度そういうことをしてたからかなと思う。

 

だから

未知の世界に足を踏み入れて「自分なりの動き」をしよう。

新しいセンチュリーに「こんにちは!」と高らかに宣言しよう。

内なる日々の悩ましきことを快方に向かわせるためには、道を歩き続けるしかない。

ケイト・マッキノンのくれたサンダルを履いて向こう側へ行こう。

 

youtu.be

 

 

 

『バービー』を観て(後編)【パターンA】

まあそれでも、バービーやケンはあくまで人工物なので(ここまで言っといてなんだという感じだけど)それらをデザインした人がどこかに存在したり、人々に評価されるのが当然なわけで、そういう意味では、実は自分の研究とも大いに関わってくる。

 

バービーの何が問題なのか、その一部

バービーの提示する女性像が批判されてきたことや、それに応じて様々な体型・肌の色・職業・ジェンダー・ディスアビリティ等々をもったバービーが誕生したことは、たぶん周知の通りで、すこし検索すれば記事が沢山出てくる。けれど、そもそもなんでバービーそんなにとやかく言われているのか、自分の専門分野に寄せてかんたんに話してみる

 

①ひとはヒトのような人工物をつくるとき様々なソーシャル・アイデンティティ(ジェンダー、年齢、人種、民族、国籍、社会的地位など)を無意識のうちに埋め込み、つくり手のもつステレオタイプを反映する

②ひとはヒトのような人工物に触れるとき、様々なソーシャル・アイデンティティの目印に否が応でも反応し、無意識に自分のもつステレオタイプを当てはめる

③このデザイナーと人工物/ユーザーと人工物とのコミュニケーションのサイクルによって社会の根底にあるステレオタイプがより強固なものになっていく

 

こんなふうに説明できる。社会科学的にはソーシャル・アイデンティティに対する偏見を強めるだとか、ステレオタイプ脅威のおそれがあるだとか、そういう問題意識に繋がる。

わたしの専門分野は、どちらかというと

バービーという文化的アイコンを例にとってその作用や意味を論じるとなると、例えば、女性性を過度に強調したプロポーション、またそれを内面化した女性モデル・少女などの痩身願望(ひいては摂食障害)についての批評になるだろう。けれどわたしの専門分野はどちらかと言うと、もっと人間工学ぽい感じで「そもそも何がこの人形を女性的だと感じさせるのか」とか「どのようにデザインすれば認識が変化するのか」とかを考えるものになる。社会よりは人工物、あるいはそこに付与されるデザインの要素ひとつひとつにフォーカスするので、より直観的な感覚を対象とすることになるが、同時に人間の潜在的な認識を呼び起こすことになるわけで、翻って脱構築主義的な立場から社会を問い直すことができる。できるというか、自分はそれをしたいがためにわざわざ人間じゃないものを研究対象にすることで、人間を観察して、社会にアプローチしている。みたいな説明になる。

 

こんな感じで、分野としては「Human-Computer-Interaction」を学んでいて、その中でも「AIやロボットに付与されるジェンダー」とか「ジェンダーニュートラル/インターセクショナルなデザイン」について考えている。専攻や研究内容を聞かれてちゃんと説明できずに口ごもってしまう事が多いのだけど、ていねいに話すとこんな感じで、でもまあ大抵は「うーん人間工学てきなかんじです!」と返してとりあえず頷いてもらうことが多い。

 

もうちょっと詳しく、今やってる研究内容

まあこれでも抽象的でピンと来ないかもなので、せっかくなのでもっと具体的な研究内容について軽く書いてみる。ここでも運良く『バービー』を例にとれる!

 

『バービー』においてケンは代表的な男性のキャラクターだが、劇中では「おれ」から「ぼく」へと一人称代名詞が移り変わる。バービーを誘ったり仲間と話すときは「おれ」を使っていたのだが、終盤ケンが己の弱さを受け入れてやさしくなるにつれ「ぼく」を使うようになる。

 

ただ、「使う」というのは字幕の中だけの話で、もちろん実際には英語の一人称「I(アイ)」を翻訳者がそのように訳しているだけだ。ということは、①翻訳者がケンに「おれ・ぼく」というアイデンティティの要素を付与し、②観客がケンから「おれ・ぼく」に相応しいキャラクターを読み取った という現象が起こっている。

 

つまり一人称を操作されるだけで、ケンのイメージは日本社会のステレオタイプと連動しながら決定づけられ、変化しうるということになる。

 

・・・以下、より丁寧な説明・・・

アニメや漫画のキャラクターの一人称(とくに男性キャラ)を思い浮かべてみれば分かりやすい。メディアは先程③で説明したサイクルのすんごい立役者になっていて、文化表象とかメディア論とかの分野には「役割語」とかのキーワードで沢山の面白い研究がある。しかしこれらは①②の部分に迫るものではない。結局のところ会話をしているキャラクター同士がどう思っているかは分からない。

一方で人間による実際の会話シーンを対象に分析することもできるはずだ。

例えば宮崎(2016)の「権力交渉を浮き彫りにする言語実践」では、とある中学校の学級崩壊の過程を学生らの一人称や言葉遣いに着目してエスノグラフィ調査を行った。学生らは家庭と学校、仲のいい友達と話す時と授業中に発言する時、先生に従う時と反抗する時、それぞれの場面で変幻自在に一人称を使い分けていることが明らかになっている。学生でなくとも、現にわたしたちは、会話の相手、シチュエーション、内容、あるいは自分の態度によって(無)意識的に一人称を使い分けて過ごしていることが多い。だが現実の人間社会を対象に一人称について分析することは、使用する本人に問うてメタ的な言述を集めるか、特定条件下の一人称使用を観察するしかない。

けれど、

 

そもそも姿かたちを持たないAIを使うなら、真に一人称「そのもの」を分析できる可能性がある。現実の複雑な関係性のもとに構築された使用状況に囚われずに、客観的な評価を示すことができる。Chat GPTなどの対話型AIに「私」以外の様々な一人称を使わせ、かつ一人称以外は全く同じ会話内容を指定した場合、人々はAIにどのような印象を抱くのか。これがわたくしの研究テーマになります。

 

どんなモチベーションなん?

これだけ聞くと言語学みが強そうだけど、AIなどのヴァーチャルなエージェントにどんなソーシャル・アイデンティティを付与するかという話は、「効率的なデザイン」と「倫理的なデザイン」の両面からけっこう大事な話で、わたしの指導教員はめっちゃコンピューティング系の学会ウケするだろうと言っている。エンジニアにとって、一人称は簡単に編集可能な一方で複雑なアイデンティティを表現しうるツールでもある。まあ確かに、将来「俺」で話す横柄なおじさん教師ロボットとか「あたし」で話す天真爛漫な女の子お掃除ロボットとかが出てきたらめっちゃ嫌だ。

でも本当は、そういうのを防ぐエシカルなブレーキみたいなもんではなく、もっとアクセルぽいもんに繋がってほしい。たくさんある日本語の一人称はむしろ可能性でもあるはずだ。というのも、

言うまでもなく一人称代名詞(=自称詞とも言う)は自らのアイデンティティを規定し表明する重要なことばだ。他者に押し付けられたり、ラベリングされたりすべきではない。なのに現状、システムによる強制(小学校での「ぼく/わたし」教育)、明確なジェンダー差(大人になっても強気な「おれ」でいられる男性と、幼い頃から公的な「わたし」でないといけない女性)、セクシュアルマイノリティやクィアコミュニティへの偏見(「アタシ」などのいわゆる「オネエことば」)が拭いきれない。

 

ほんとうは、それぞれ自分の名前か、気に入った代名詞を選び取って(あるいは作り出して)自称したり、アイデンティティを越境できたりする(あるいは越境しても何も言われない)社会になったらいいのになと本気で思うし、そういう世界に生まれたかった。

 

までも、のちのち作ることはできるかもしれんな〜と思って始めた。研究室同期からは「こいつ何の研究してんのかわかりゃしない」という目線をひしひしと感じるが、やり過ごしつつ、ぼちぼちやっている。(2023.9.7 追記)同期はダークパターンの研究かなんかをしていて、明日のNHKおはよう日本に出るらしい。このまえは読売新聞の一面にも出ていた。すごいですね。

 

9月中旬の学会に7000wordsくらいの論文を出す予定で、最近は少しバタバタしている。しっかり!びっくり!やっぱり!な結果がでたので、ちゃんとまとめられたら、また詳しい話をしてみたい。